オーボエ雑学

第3章 
オーボエの近代史

バロック時代に確立した原型、そして楽器の名前

最初のオーボエがいつ世に送り出されたか、その日付までは残念ながら詳らかでありません。17世紀中頃に産声をあげていたのは確かで、その誕生に大きな貢献を果たしたのが、フランスで活躍していた演奏家=楽器製作者のフィリドール一族とオトテール一族。甲高く大きな(haut)音のする、樹(bois)で作られた楽器という意味のフランス語“オーボワ”が、新しい楽器の名前として他国に波及したのも当然のなりゆきでしょうか。イタリア語や英語の“オーボエ”も、元はといえばこの言葉に行き着きます。

かくして18世紀初頭には、今日の呼び名でいう“バロック・オーボエ”が広く普及を始めました。それ以前は弦楽器が主体だったオーケストラにいち早く定位置を占め、バッハやテレマンやラモーなどの大家が多くの作品で活躍の場を与える、木管楽器の花形的存在となったのです。リードを装着して左手で指孔を押さえる上管と、右手で指孔を押さえる下管、そしてベルの3パーツで管体を構成する点に関しては、今日に至るまでオーボエの基本的なデザインとして変わることがありません。キーは当初のうち右手小指で操作するものが唯一でしたが、いわゆる古典派の時代を経て19世紀に入る頃から次第にキーが追加され、急速なパッセージや半音階的な楽句を滑らかにこなす機動力も増していきます。

コンセルヴァトワール式の浸透

機械工作技術も飛躍的に進歩を遂げる19世紀中葉から後半にかけての時期は、キー・システムの改良に様々な製作者が取り組んでいました(これは他の木管楽器にも共通することです)。中でも大きな業績を上げたのは、やはりフランスの楽器工房トリエベール。彼らが1872年に特許を取得した“トリエベール第6式”によって、現在では世界的にスタンダードとなっているオーボエの基本的なシステムが確立されました。フランス随一の音楽教育機関にあたるパリ国立高等音楽院でも、1881年から教授をつとめたジョルジュ・ジレが、このシステムをベースに設計された楽器の導入に尽力し(1882年には上記の“第6式”に部分的改良を加えたモデルをオーボエ科のクラスで正式採用)、それにちなんだ”コンセルヴァトワール式”という呼称も一般的なものとして定着を見ています。

フランスと並ぶ音楽大国ドイツでも、独自に開発の道を歩んできた“ジャーマン・モデル”のオーボエは存在したのですが、操作性と音質の柔軟性において旗色が悪く、20世紀に入ると徐々に姿を消してしまいます。ドイツのオーケストラで最初にコンセルヴァトワール式を吹いた人物は、パリに留学してベルリンで活躍し、1907年から同地の音楽大学で教鞭をとったフリッツ・フレミング。指揮者=作曲家として影響力の強かったリヒャルト・シュトラウスが彼の演奏を賞賛し「みんながこのオーボエを使うべきだ」と語ったのも周囲を感化すること大だったようです。そして実際、その後の音楽界の動きはシュトラウスの言葉どおりになったものの、唯一の例外となった場所が彼と極めて関係の深い音楽の都ウィーンだったのは若干の皮肉というべきかもしれません。その楽器“ウィンナ・オーボエ”にまつわる話題は、また別の機会に……。

木幡一誠(Issay KOHATA)

音楽ライター。1987年より管楽器専門誌「パイパーズ」(2023年4月号で休刊)で取材・執筆にあたり、現在各種音楽媒体のインタビュー記事、CDやコンサートの曲目解説執筆およびレビュー、さらには翻訳と幅広く活動中。

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